転んで起きてネクストステージ

転んで起きてネクストステージ

みなさまご機嫌うるわしゅう。暑くなったり寒くなったり微粉が舞ったり、春というのは落ち着かない季節ですね……

ひさびさの記事と思ったらまた筆者の自分語りです。手書き・手帳の話は次回以降をお待ちください!よっぽど暇で物好きな方のみ、続きをどうぞ。下手に期待なぞして読むと、かなじいに幻滅する恐れがあります。


阪急のイベントが終わってもうひと月!すっかりご無沙汰してしまいました。イベントで初めて知ってくださった方は、その後、SNS での活動がさっぱり見えず、どういうこと??の戸惑い如何ばかり……と想像。告知したりサンプル上げたりしたい気持ちだけは旺盛で(しかも〈ORIカレンダー〉上がってきたのにまだ STORE に上げてないという)なにやってんの、と自分にツッコミいれては焦りを積み立て。こういうのだけ複利がすごい。

2025/04/04(金) は神戸三宮の NAGASAWA JournalStyle の手帳イベント(3月末から4月いっぱいの間、週替わりでいろんなメーカーさんの商品を特集するコンセプトで毎週末に開催されます。智文堂は店頭に立つのを遠慮させていただいたため、イベント用にちょっとしたリフィル商品を準備したのみ)の設営に行ってたんですが、お会いする方みんなにやさしいお言葉をいただいてしまいました。すっかり心配かけキャラになってもうてる……甘えるばっかりではいかん、と思う一方で、ありがたく受け取ることしかできなくなっている私。文具界隈の皆様、天使すぎでは?

一年近く前、自分語りしか入ってない長文を公開しました。まだ一年経ってないの!暦の上で過ぎた時間と、実感がだいぶズレている。

上記の記事を公開した時点ではだいぶ元気になっていて、このあと2024年末にかけては私の記憶にある中で一番調子が良く(主に精神面)、よっしゃー!と調子に乗っていたのですが、年明けちょっとしてからいきなり失速。そんなはずない、と懲りずに否認したからこじらせてしまった。

AC や依存症(の背景にあるトラウマ体験)から回復された方や支援の専門家の文章をいろいろ読んでいるうちに、「回復途中の山はもしや一つでは終わらない……?」と察してはいたのですが、自分はそこまで深刻じゃないし、まあ大丈夫っしょ、と思っていました。とんだ見当違いだったようです。プロセスに深刻さは関係なし。

私個人の体験として、(これはド素人のいち当事者が自分の身にたまたま起こった話をしてるだけなのでそのおつもりで)「生育歴でガチガチに強化した鎧を脱ぎ捨てる山」と、「むき身になった自分の姿勢と装備を見直し始める山」があった気がします。深刻なトラウマだと、前者だけでもひとつやふたつじゃないのではなかろうか。

2024年5月の時点では、鎧をようやく脱ぐことができたと感じられて、息ができる!体が動く!軽い!という、脱皮ハイになっていた可能性大。鎧から解放=直ハッピーと思っていたけど、そうは問屋がおろさなかった。

鎧は嫌な記憶や呪縛がべったり染み付いた上でほぼ自分の皮膚と一体化しているので、これを剥がすのは一歩間違えればダメージ甚大になりかねないし、とにかく環境の安全と安心を確保しないと手をつけられないプロセスであることは確か。だからこそ、自分の身から離れたと思えたときの解放感がすごい。そこには「ようやく終わった……!!」という安堵が多分に含まれていて、そんな時に次があるなんて話は考えるもおぞましいのです。直後にそういう情報に触れたところで、ご冗談をホホホ(私は例外)、で一蹴してた(たぶん)。

だけど、鎧前提で身についてしまった自分のクセ(価値観や行動の基準)や、これから生きていく装備(なにを受け入れてなにを取り除くか、境界線の引き方)を見直すのは、鎧とは全然別の話なんですね……体験したから言葉になるけど、事前に聞いたとて、「じゃあ意地でも次を回避する方法を探します。あるはず!!」ていう発想になってたと思う。知らないからこそ通れる道がある(知らんけど)

私は鎧を脱いで以降、大きい言葉を使えば、世界の感じ方が変わりました。全部が反転したわけではないけど、それまでいいと思っていた音楽や本に魅力を感じなくなったり、食べ物の好き嫌いが変わったり、スルーできること・できないことが変わったり。食べ物のインパクトは大きかったです。匂いは記憶と強く結びついているというけど、味と匂いは不可分だから、食べ物の好みも記憶に左右されるんだな……と実感することが多かった。

慣れ親しんだと思ったものがいきなり違和感を訴えてきて、その度にひとつひとつ、違和感の元は何か、どうなったら受け入れられるか、残すか手放すか、自分にお伺いをたてる。これまでさんざん無視してきたのがたたって、自分はなかなかはっきり答えてくれません。まず声を聞ける(つまりきっちり答えられる)ようになるにも訓練が必要でした。なにが心地いいか、どうすれば話す気になるか、手探りでいろいろ試す日々。

これを自分の生活で繰り返していると、そのうち、対人関係にも影響が現れます。それまでイヤだと自覚できなかった、ささやかな態度や接し方の数々が、はっきり不快になりました。鎧から解放されて、ハッピーどころかイヤなことが増えるという逆転現象。これはある程度親密な関係ほど強く起こる現象で、現実を受け入れること自体しんどいです。大事と思って長く付き合ってきた相手とはできればずっと仲良くしていたいじゃない?でもこういうのは意識したが最後、それまでの状態には戻れない因果。関係性のどこにどこまで手を入れるか、そこから全部自分で考えて選ばねばならない。

自分のメンタル不快指数に気づいてから、しばらくは相手に対して失望したり、過去に受けた扱いに憤ったり、それを少しずつでも伝えていけなかった自分と関係性を悔やんだりして、さりとていまさら相手に言う言葉もなく、「何もやる気が出ん……」と腑抜けていました。しかし、どういう振る舞いが不快かノートで細部まで分析しているうちに既視感が。

これ、過去、私自身が連れ合いに取った態度と同じでは……??

これに気づいたときの衝撃よ。

心から恥じた。どれだけイヤか、ついさっきまで並べ立てていた恨みつらみが、全部自分に覆いかぶさってきた。

え……私??

お前じゃ!!!!!!!!

これほど強烈なブーメランがあっただろうか。気づいてできるだけすぐ謝りました。そのときのことを思い出した連れ合いの声は上ずり、頬は紅潮し、肩は震えてた。私はこれまで連れ合いのそういう反応を見るのを疎んじていた(ハイ最低)ことまでありありと思い出してさらに恥じた。いまならわかる、全身が拒否反応を示すほど屈辱的な扱いだということが。

「わからない奴はわかるまで本当にわからないんだな(己)」と身を以て知ってしまった。

この記事を書いたのは、このことをなかったことにしないためです。なんちゅう自己満足。恥ずかしければ恥ずかしいほど、無自覚に忘れようとする可能性も多いにある。それはあかんぞ、という、将来の私への通達。これは信用の問題なので、謝ってハイ終わり、じゃないし。

そして、「鎧を脱ぐのは自分がされてきたことの振り返り」「その後に来るのは(巡り巡って)自分がしてきたことの振り返り」なんだなと思いました。そりゃ両方来るわ。片っぽだけで済むわけないわ。もちろん両方しんどいわ。しんどさの種類も違うわ。何なら後者の方が逃げたいわ!(キレるとこちゃうぞ)

鎧による強張りが解けて、等身大の自分を知る流れは回復の過程で多く語られることです。「理想じゃない、情けなくみっともなく失敗する自分」という言葉を、文章ではさんざん目にしてきたけど、全然わかってなかったわ。みっともなすぎた!!「いい人/いい子じゃない、むしろ悪人」ならいっそカッコいいかもしれんけど(幼稚な発想)ここにあったのは、ただただ残念な自分の姿であったという……

私が AC という懸案を放置できなかったのは、無気力という悪影響がなにより仕事に一番強く出たためです。こんなにやりたいと思える唯一の対象が目の前にあるのに、自発的に動けないという意味不明な状況をなんとか解消したかったのです。私はこれを連れ合いに謝った日に書いているので、このあと果たしてきちんと体が動くようになるのか全く未知数ですが(自分の過去のやらかしがこの程度で終わるわけないという予感もある……)、無気力も燃え尽きも後回しグセも何もかも、諸悪の根源は「自分の声を聞かんからや」というところにある気がしてきました。

「休みたいって言われたって結局は締め切りに間に合わすために作業するんやから聞こうと聞くまいと同じ」と決めつけて端から聞こうとしない(あるいはその場に居さえしない)、という態度が終わっているのです。そんな相手が上司やってみろ、瞬く間に愛想尽かすやろ。

特定の相手に対して、それでも愛想を尽かしてはならない、と思い込んだのが長年の鎧(呪い)(韻踏んだ ← やかましい)やったということかな……言葉にするとこんなにあっけないものか。

と書きつつ、私は前職でわりとそういう(自分で正義と思い込んだ)刃をドヤ顔で振るっていたのだった……☠️と、ブーメラン再び。ちょっと〜〜〜〜

どう落とし前つけるか、考えます。(書いとかんと抹消しようとする姑息な自分が見える)


これまでの私の行動原理は、合理性と論理性を極端に偏重してきました(それしかわからんかった)。その反動か、鎧以降(どういう言い回し)、このふたつを忌避する傾向が……。これも仕事を進める上で困ったことの一つ。代わりに何を動力や規範にすればいいか見当がつかない。合理性や論理性が顔を出そうとする気配だけで感情的なイヤイヤモード。困ったもんです。(他人事か)

ただ、一つ(わたし的に)朗報が。恐る恐る試してみるに、それでも書くこと(作ること/考えること)はイヤにならなかったようなのです(現に、これだけの長文記事を書いてるし)。奇跡。常にしんどさや苦しさと一緒にあったのになあ。何が境界を分けるんだろうか。不思議。

書くと、自分の抱えたものに行き場ができるのを感じます。抱えたものが手離れしたら、新しいものに手も伸ばせそう。急かしは禁物やけど。体の使い方が変わるまでは、「〜すべき」「〜した方がいい」「〜しないと」という言い回しにはお休みいただき、「〜したい」と言えるコンディションを整えていく所存です。

そういえばこの記事を書いた前日は、カラスが上昇気流に乗って高く舞い上がっていく(たまに高度が落ちても別にへっちゃらそうな)姿が、なんだか遊んでるように見えたんでした。あの感じを思い出しながらやっていこう。

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。それではまた次号で!

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